個人的な見解

 このところ、活字中毒が再発し、せっせこ読んでおる。数冊同時に読んでいる。以前は、「げぇ」って思ったけれど、数冊ずつ読んだ方が、煮詰まらないんだよ。小難しい本を1冊せっせこ読んでおると、眉間に皺を寄せて、悶絶しながら読み、なかなか読み終わらないから苦痛になってくる。それを回避するのに多読するのが楽と気づいた。同じような本を同時に読んじゃダメだよ、ジャンルの違う本を揃えておくのだ。以前だったら、2冊カバンの中に入れるだけで、大変なことになっておったけれど、電子書籍にしてから、数十冊持ち歩くことが可能になったからな。まったくもって、便利な世の中になった。

 最近の俺が頻繁に読んでおるのは、エディの追悼本だ。まぁ読むと、新しい発見と、そーいうことか!という謎が解けたりする。エディのライヴにおける演奏力の高さは、驚きだ。あの演奏を飛んだり、跳ねたりしながら弾いていたんだからな。ボーカルに応じて、キーを変えて演奏していたのも驚きだ。考えてみれば、ギターのチューニングがEADGBEと決まっている訳ではなく、曲に応じてチューニングを変えることはOKなんだ。ドゥージル・ザッパがアンチャインドを弾いているのを聴いた時、音が違う気がしたんだ。あの時の感覚は、正しかったんだと改めて思った。

 でも、ライヴでそこまでやることは、難しい。ドラムは良いとしても、ベースは、チューニングを変更しないと演奏についてこれない。
 そー考えると、マイキーにしても、アレックスにしても、エディに対応する演奏をしていたということになる。それは、ある意味で凄いよな。アレックスの単調なドラムも、実は、エディの演奏を考えての事の可能性もある。アレックスは、元々フルバンドでドラムを叩いていたらしい。だとしたら、オールラウンダーの筈だから。
 第一線で活躍しているアーティストのインタビューを見ても、リスペクト感が半端ないもの。ヌーノがコピー出来ない曲があるんだとさえ思った。

 寝る前に読むのがエディ追悼本で、普段は、俺が興味のあることが書かれておる本をせっせこ読み、そして、もう一冊が歴史小説なのだ。
 今まで、歴史小説なんぞ、これっぱかしも興味がなかったんだ。だって、既に起きて分かっていることを小説に書いてもしようがないだろ?と思っていたからだ。
 じゃー、何故読むようになったか?拾った明智光秀の本が面白かったからなのだ。「あぁ歴史って、解釈なのね」っと思ったわけ。オリジナルがあり、解釈次第というのは、クラシック、落語、ジャズ、歌舞伎と結構多い。歴史も大まかなことが、こーありましたというだけだから、そっから先は、書き手の筆次第ということになる。

 それを読んだ後に読んだのが司馬遼太郎の「国盗り物語」だった。再び、明智光秀を読んでみた。実際は、斉藤道三が読みたくて買ったのだが、結末が光秀だった。光秀物を2冊読んで、キャラクターの設定が違うから、結末は同じだが、そこまでの過程が変わってくる。片や、頭脳明晰の良いやつ光秀、片や、頭脳明晰ではあるが、気が弱い光秀ということになる。「国盗り物語」の面白いところは、斉藤道三、明智光秀織田信長という3人にスポットが当たっていることだ。

 道三が日本統一の道筋をつけ、それを信長が形付け、統一をやり遂げるであろうと思われたときに光秀の謀反である。歴史の流れで見ると、教師の力の入れ加減ではあるけれど、それでも1時間の授業の中で、語られて終了だろう。実際は、色々なドラマが、やはりあったのだろう。「麒麟がくる」の描かれ方も、ありだろう。
 N〇Kの大河ドラマが嫌いだった。何故にそんなに視聴率がある?と思っていた。とっかえひっかえに多様なドラマを作りおってと思っていた。その部分は、変わりないかな。歴史小説を読み始めると、役者が演じておるのを見て「そーやって演じちゃう」と演じ方に突っ込むようになる。小説を読んで、先人に肉付けされ、こんな感じの人なのかなぁっと出来上がってくる。ちなみに「国盗り」を読んでから、もっくんの道三の演技は、疑問を感じる。あんな奴じゃーない!

 為替のことを本で読んでいた時に「為替を知りたかったら、歴史を勉強しなさい」ということが書かれていた。読んで、何となく意味は分かったけれど、明確なビジョンは出てこなかった。でも、歴史小説を読み、コロナ禍の人の動きを見てゆくと、人の予測は、どんな物事も、人の動きを予測することは出来ないと思った。俺個人的な意見だけれど、コロナ禍の世の中の動きは、数十年掛けて動いてゆく状況を数年が駆け上がっている。これは、凄く面白いことなんだと思う。先を予測する術を得るチャンスでもあると思える。時代の岐路に接する機会は、貴重だよ。