壊れっちゃう人も居るらしい

 図書館から借りた本をちゃんと、2週間で読みきった。 初めてである。 まぁ、確かにページもそれほどではなく、エッセイっぽい本であったせいもある。 養老先生と、南伸坊の書面のやり取りを文章化しったっていうのかなぁ、ちょっと読みづらかった。 対談なのかと思って、借りてみて、読んでみたら、養老孟司先生の項目に分けた授業を受けて、それに対して考えたことを文章化して、それについて、養老先生がメモを出すという感じである。 

 南伸坊、顔に似合わず、理屈っぽい人で、それが文章に出ておって、読みづらいんだよ。 後半、慣れて、なーんとなく理解したけれど、半分を越した辺りで、諦めて読み続けた。 基本、科学と、脳みそが好きだからなんだろうなぁ、でなかったら、途中で、諦めておったな。 

 養老先生の本は、以前からよー読んでおる。 この本に使われておる題材も、大半読んでおるのだが、結構前なので、忘れておるのだ。 読み返したかったけれど、天袋に未だ収まったままで、出すことが出来んときている。  

 面白かったのは、解剖学とは、言葉の学問であるというところだ。 解剖するってことは、臓器のことを知ることだと思われがちだが、そうではなく、始めてみる臓器、臓器の機能などに名所をつけないと判らない。 そこから始まる学問であると、言っているのだ。 確かに誰かが、腸とか、胃とか、脳みそに関しちゃ、事細かに分類されておる。 海馬とか、小脳、大脳、右脳、左脳なんぞは、大きく分けたに過ぎない。 太平洋、大西洋程度の話しである。 もっと、細かく分類されておるのだ。 お前、それ判るのかよ? なんて、聞くな! 判らない!! 

 そして、死に対する考え方だな。 解剖をするってことは、既に死んでいるわけで、やはり、必然的に死について考えることになる。 病気を治すっていうのなら、生について考えるであろうがな。 人は、死を恐れるから、解剖するんだという件が、理解できる。 何故、人は、死んじゃうんだろう? ってとこから始まり、それは、自分自身の死について考えているところから来るんではないかな。 

 大学解剖実習で、壊れちゃう人がおるというのも、興味深い。 それまで、一生懸命学位をとるためにやっておったのに解剖の実習中に耳を切って、その耳を壁に突然張り付け 「壁に耳あり」 とやってしまった学生や、睾丸と金玉を切り取って、突然 「風鈴」 と言い出し、金玉を振り回し始めたらしい。 死体を前にしても大丈夫な人や、死体に一切関わろうとしない人や、そのときは、平気でも、数年後、突然壊れちゃったりするらしい。 当然だが、遺体は厳粛なもんなのだ。 

 俺が遺体を見て思うことは、「これには、もう魂はないな、まるでボンレスハムみたいだ」 である。 人、それぞれ感じ方は違うであろう。