只の殺人者

 昨日、西に向け、祈りを捧げるイスラム教信者を見た。 今までなら、何のこたぁなくスルーしただろう。 だが、昨日は、嫌悪感と、寒々とした怖さのようなものを感じた。 嫌悪感は、当然、人質事件によるもので、怖さというのは、あの寒い中、靴を脱ぎ、地面に頭をつけ祈りを捧げていた。 俺は、神を信じておらんから、それに対して、恐怖したのだと思う。 宗教に罪がないことは、理解している。 が、俺の持っている感覚からは、ちょいとばかり、外れているんだ。 

 宗教は、政治と、教育に入り込んではいけないと思っている。 宗教というのは、あくまでも個人的なものとして、捉えている。 だから、政治にも、教育にも関わる必要を見出せない。 人に宗教や、神は必要なのだろうか? 必要だと思う。 極限化において、人は、何かに祈るのだと思う。 それが、神なのか、抽象的なものか、死んでいった親族であったりするのだ。 俺の場合は、迷わず、おふくろと、弟に祈る。 俺も、神は信用しておらんし、信仰も持っておらんが、そーいった祈るべきものは持っている。 

 じゃー何故、宗教が政治と、教育に入り込んじゃ駄目だと思うか? というと、それを笠にして解釈が幾らでも可能になってしまうからだ。 何でもかんでも、神様を出してくれば、帳尻が合ってしまう。 あれだ、今のガキ共が、妖怪ウォッチの影響で、なんでも妖怪の所為にしているようなもんだ。 すべてが万事だといっている訳じゃない、ベクトルが悪いほうに傾くと、歯止めが利かなくなるのだ。 日本でも、ソーカ学会がやっておることは、そーだろ。 すべてが万事、世界平和のため! というのは、間違っちゃいないが、限度を越えた考え方は、危険極まりないのだ。 何をするにも金が必要になるから、結果、信者から根こそぎ持っていってしまうんだろ。 基本、気持ちで良いはずだろ? 米とか、物だって良いはず! 日曜日は、日曜日で、その手の連中としか集まらん、当然、考え方の幅が狭まる。 キリスト教にしたって、未だ、頑なに進化論を否定しているだろ? それを認めてしまうと、神の存在を否定することになるからだよな。 

 もし、神が存在するのなら、手っ取り早く人の前に光臨して、「俺、神様だけれど、なんか質問ある?」 と出てくれば、なーんの問題もない。 そして、神の名の下におこなっている事に答えを出して言ってくれれば、良いのだ。 それか、ガミラス群じゃないけれど、宇宙の果てから、絶対君子が光臨してくるのもありかな。 現状、人が、絶対的なものだと思っているから、こーなるんだ。 

 後藤健二氏が、殺害された。 日本から、遠い反対側で、残虐な方法によって殺害された。 そう、俺たちは、中東で起きている事を遠い異国の事だと思っていたんだ。 不安もなく、対岸の火事として、野次馬のように見ておったのだ。 日本人が、斬首される光景は、衝撃を与えると思っていた。 連日、連夜報道されていた見知っている人が、殺される光景である。 俺は、衝撃と共に怒りを覚えた。 「ふざけやがって! 俺たち日本人を殺しやがって!」 後藤健二氏の意思に反するが、怒りがある。 どうしようもない怒りがある。 家族は、殺された光景が世界配信され、消えることはない。 家族の心理として、その光景すべてを見ようとする筈だ。 使命だと考える筈だ。  

 やつらは、テロリストでもなく、欧米に反対する政権でもなく、只の殺人者だ。 愚かで、どうしようもない殺人者でしかない。