ウォリアーズ

 ガキの頃に観た映画というのは、猛烈に脳髄に叩き込まれておって離れんもんだ。タクシー・ドライバーは、俺の中ではその最たるものだ。改めて見ると、トラビスぶっ飛んじゃっているものな、まともじゃない。モヒカンにして、大統領候補やっつけに行こうと思ったけれど、売春組織をぶっ潰すことにしただからな。でも、当時は、それを定理として間違っていないと思っていたんだから、俺もまともじゃない!!俺は、タクシー・ドライバーが原因で、NYに行ったのは、間違いない。

 当時の危ないピリピリしたNYは、俺たちにとっちゃ憧れであり、しょんべんたれのガキが行っちゃいけないところだと思っていた。通りに出た瞬間に裏道に首根っこつかまれて連れて行かれて、帰って来れなくなっちゃうと思っていたもんな。そんな俺のNY感を決定づけた映画がある。ウォリアーズ だ。

 ストリートギャングなんて言葉、向こうでもう死語なのかもしれない。同じ服着た小汚いチンピラ集団である。内容は、ストリートギャングを束ねて大物になろうとしておったサイラスの呼びかけにギャングたちがブロンクスパークに集まって集会をするが、そんだけ、ちょい悪集団が集まると、一人くらいは邪魔してやろうってヤツが出てくる。サイラスは撃ち殺され、その犯行をウォリアーズの仕業にされてしまい、ブロンクスから、故郷のコニーアイランドに逃げ帰るという話だ。そうそう、この映画で、コニーアイランド覚えたねぇ。

 久々に観て、集まる公園がセントラルパークだとばっかし思っていた。実は、ブロンクスパークだったのね。オープニングの疾走する列車に被せてタイトルが出てくる。よーく見ると、スプレーで書いた文字を模していたのね。NYの地下鉄って、落書きだらけで、一人で乗ると襲われちゃう!!っていうのが当時の評判だった。実際、薄暗くて、人が居らんとマジに怖い。でも、24時間運行しているって、凄いよな。ちなみに時刻表なんてぇーものはありません。しかし、地下鉄構内をストリートギャングが闊歩して入れるシーンが、今見ると業とらしい。

 出てくるストリートギャングも笑える。スキンヘッドのガンムチ軍団、ターンブル。へなちょこ軍団、オーファンズ。バット持って走りづらかろう、KISSのようなペイントのベースボール フューリーズ。そして、リフス、テレビ放映時にカッコして禁煙って書いてあったのには大笑いした。途中途中に入る魅惑的なたらこ唇の黒人のDJ。

 とにかく、太陽にほえろ!並みに走る、走る、走る!邪魔する敵をやっつけて、又、走るのだ。これが疾走感を与えておる。15、6の小僧が観ると、アドレナリンがドバっと出てしまうのだ。
 ラストに流れる、ジョー・ウォルシュのイン・ザ・シティーがカッコいいんだ!!

 今となっちゃ、この手の男汁全開の映画は、好まれなくなった。監督のウォルター・ヒルも、ブロンソンの「ストリート・ファイター」エディ・マーフィニック・ノルティの「48時間」と、男の印象に残る作品を残しているが、今は作品は撮らずに制作に回っているのかな。今撮ると、同じようなもんは撮れないと思う。隠し味として、70年代、80年代という時代背景があるように思われる。NYも、昔のピリピリ感はなくなり、世界のランドマークとしての役割を担っている。街を歩いても、研ぎ澄ますような感じはないんじゃないのかな。

 70年代の映画って、時代の持っている緊張感が画面に現れている。見ているこっちにも伝わってくるんだ。計算なんてされておらず、CGなんてものはなく、役者もゴツゴツしているのが良いのかな。完璧であるということが良い訳じゃないんだ。荒さと勢いが大切だと思う。

久しぶりの更新(笑)

 いつもの土手をランニングしておって、下校時の中防に出くわすのだが誰とも出くわさんかった。マスクした健康のためウォーキングしておるじいちゃん、ばあちゃんぐらいだな。マラソンのレースも自粛になり、レースのために練習に励んでおるもんも居らんせいか、走っているヤツにも出くわさん。コロナで小中高が休止になっているのを感じる。本人たちは、面白おかしく学校が休みになったことを楽しんでおるのだろう。何も考えておらんかった俺の中防時代を振り返ると、そんな気がするが、今の子たちは、そこら辺のことを敏感に感じておるのだろうか?

 話は、急激に変わるが、映画のことをこれっぱかしも、打っておらんが観ておらんという訳ではない。むしろ、よー観ておる。俺も、かみさんも映画が好きだから、よー観とるのだ。二人して、観ちゃー、あーでもない、こーでもないと語り合っておって、それで終了してしまうから、打つこともないというわけである。

 どんな映画を観ておるか?っちゅーとだ、小難しい映画は敬遠される。そして、俺の大好きな類も敬遠される。例えば、1941、タクシードライバーロッキー・ホラー・ショーヤング・フランケンシュタインブルース・ブラザースとか、ちょいとばかりマニアックなもんは、観て意味が判らんといわれる。ここら辺は、しゃーないかな。一人の時にこっそり観ておる、まるでAV扱いじゃないか。

 そんな訳だから、安全パイを観ることになる。イーストウッドの「運び屋」を観た。

 イーストウッド監督作品であり、主演である。俺がイーストウッドをちゃんと評価したのは、「許されざる者」からである。あれを観るまでは、ハリー・キャラハンだったり、ダーティーファイターの強いおっさんでしかなかった。マッチョな娯楽作品の王様って感じかな。「許されざる者」を観て、マッチョな頭な筋肉なおっさんじゃないじゃん、人の微妙な感覚を表現出来るデリケートなマッチョじゃないか!と思ったのだ。それから、イーストウッドの監督作を順番に観ていった。演出は、とにかく無駄がない。無駄がないが、描き切れているのだ。そして、自分自身の年齢に応じて作品をチョイスしているのも凄い。自分自身がカメラに収まった姿を客観視しているのだろう。スタローンは、自分自身を画面に収めるように自分自身を繕っているのがある意味凄いけれどな。その感覚がズレ始めると笑えるんだろうな。

 今回の「運び屋」吹き替えで観たのだ。何故に吹き替え?確かに飯食いながら観るとき、吹き替えだと、飯にかまけておってもストーリーを置いてきぼりにしないで済む。そーじゃない!NAMAZONのコメントを見るとだな、「まるで、山田康夫!」の嵐なのだ。おいおい栗貫?そんな訳ないよな、栗貫にゃイーストウッドが出来るわけがない。何故か!マジのルパン三世を未だに演じることが出来ないから。
 誰だ誰だ?と思ってキャストを見てみると、多田野曜平?誰?

 ベテランの域に入っている声優さんなのに知らんかった。流行りのCGビシバシのアニメを観ないから知らんかったのか?役者から声優にスイッチした人のようで、新録の「夕陽のガンマン」を当てているようだ、それは未見だ。山田康夫が演じるイーストウッドの肝は、微妙なしゃがれた感なのだ。栗貫がマジのルパンを演じられない理由は、このしゃがれた感が出せないからなのだ。

 吹き替え映像の予告を観たとき、しびれたねぇ!!まるで、山田康夫じゃないですか!これで、安心してイーストウッドの吹き替えが観れるってもんだ。いつも、ひやひやしながら観ておったよ。

 さて、内容であるが、実話をベースにした犯罪物で、90歳のじいさまが麻薬組織に雇われ、運び屋になってゆく話し。気軽にドライブして、お金が入ってウハウハの時は、コミカルに描かれ、徐々にシリアスになってゆく。演じているのだろうが、颯爽としたイーストウッドの背中ではなく、寂しさと老いを感じる。
88歳にして、現役で映画を撮り、演じているというのは、凄いよな。やっぱ、ダーティー・ハリーなのかな。

It's A Beautiful Day

 今年は、珍しく1年が長く感じた。目新しいこと詰め合わせだったからな。皆さん、令和元年、どんな年でしたか? ドラマも佳境に入り、新展開に突入ってところかな。まずは、入籍から始まって、みんなに祝福された結婚式があり、親父さんが亡くなり、そして、頻繁にかみさんの実家に足を運ぶようになり、わたわたしておった。

 仕事は、仕事で、年末に入り昇進試験を受けることになり、ながら勉強をして、1次のペーパー試験が終了し、来年、2次面接という念の入れよう!!特別難しいことはないのだが、会社によくありがちな、五カ条とか八徳といったもんがあり、年次の目標があったり、それを覚えなければならなかった。こーいうもんの方が苦手だ。試験があり、問題集があり、教本があるという方が覚えるのは楽だ。んでもって、年を食って暗記が苦手になっておるということが発覚した。普段の生活の中じゃ、「あぁ忘れてた忘れてた」と頭を掻いて済まされるのだが、勉強をしておると、覚えが悪いというのが肌でビシバシ感じる。やっぱ、年なんだなぁ。

 身体に関しちゃ他の人に比べっと、健康診断で引っかかるところは少ない、丈夫に産んでくれてありがとう母ちゃんだ。でも、歩いたり、走ったりしておって、以前のようにシャカシャカ動かんのだ。跳ぶなんて論外だね。確かにマラソンで走っちゃいるけれど、それで使う筋肉だけ鍛えてもしようがなくて、他んとこも均等に使ってやらんと、うまいこと動いてくれない。山本小鉄直伝のスクワットは、欠かさずやるようにしておるよ。

 今年は、いつになくみんなに会った。結婚がらみっちゅーこともあったけれど、顔が見れるというのは、良いことだ。近況を聞いて、良いことだったり、悪いことだったり、面白おかしく話しを聞く。50年も生きていると、大概の出来事は経験しておるから、ちょっとやそっとじゃ驚かない。俺も二人になったから、一人で物事を解決するのではなく、二人で解決する。ヤマケンから頂いた結婚式のパネルが食器棚の上に飾ってあるのだが、みんなの顔を見るたんび、穏やかになるのだ。写真には思わぬパワーがあるね。阿久友が撮ってくれたビデオは、歳を食って、「おぉーやってるやってる」と客観視することが出来るようになったら、かみさんと二人して見る。今見たら、のたうち回る!!二人とも、ありがとう。

 12月3日弟の墓参りにかみさんのお母さんが来てくれた。墓標に刻まれた弟の年齢を見て「27歳かい、若かったんだねぇ」と言い、そして、「お母さんも68歳じゃ若いよね」と言った。初めて思ったが、俺と弟で心配かけたから、若くして逝っちまったのかなぁっと思った。減る一方だった家族が増えたことが何より嬉しい。家族も一気に増えた。

 人の運命は面白いもんだ。トレーニングの一環として行った四国で、かみさんと出会った。出会いなんか考えてもいなかった。運命なんてもんは、どこで、どう転ぶか誰にも分らない。俺も散々、そんなことを言われた気がする、「はいはい分りましたよ」という程度で聞いていた。自分自身で、出くわすと、そーいうこともあるんだと思う。「人との出会いなんか分からないから、いつ、運命の人と出会うかなんて」と職場の若いもんに言うけれど、俺の言葉をきっと、「はいはい分りましたよ」って聞いているんだろう。その瞬間、幼くしてやってくる人も居れば、絶頂期にやってくる人、老年期にやってくる人も居る。それが、どんなことかも、その瞬間にならないと判らない。当然ちゃ当然。
 
 この歳になって思うことは、人生は、劇的でなくても、十分面白い。 あぁ、結婚式のお祝いは、無期限で募集しているぞ、気兼ねなく送れ!!

 

 ブログもなかなかアップすることが出来ん、これが多分、今年の最後のアップになるのかな、では、皆さん、良いお年をという定例文で、さいなら。

ありがとうございます

 「もしもし、起きてた?脈が打たないの 今度は駄目かもしれない」 眠気眼で受けた電話は、かみさんからだった。去年の暮れ、かみさんの親父さんに食道癌が発見され、闘病しておった。9月に入り、いよいよ危ないと言われてから、間もなく2週間だ。
 仕事を終え、2時間ほど寝て起きるのが俺の生活のスタイルだ。このところ、寝起きの状態が朝と言わず、昼と言わず、疲れが取れん。取れん原因は、これだ。歳だなぁ俺も。

 籍を入れ半年を過ぎたあたりになるのかな。生活は、至って普通である。一緒に住み始めた頃と、何ら変わりはなく時間が経過しておる。二人して、他愛無い会話をし、映画を見たり、読んだ本について語ったり、起きたことを話したりして日々が過ぎ去ってゆくのだ。

 起伏なく時間が過ぎているようであるが、裏で、かみさんの親父さんの食道癌が進行していた。発見されたとき既にステージ4だった。おふくろもステージ4での発見だったから、どういう状態かは理解しておった。
 こんな時期だから、結婚は落ち着いてからするべきか、この状態だから、すべきだと判断は分かれるとこだ。はじめは、こんなわたわたするときに結婚なんてと守りに入った発想をした。ちょっと待てよ、こんな時期だからこそ結婚すべきなんじゃないかと思った。深いことは、相変わらず考えていないけれど、そーすべきだと思ったんだ。

 病状が進行し、緩和ケア病棟に入り、入れ代わり立ち代り家族が見舞いに来る。俺んちと違うから、色々と比べてしまう。何かが起きたときに家族は沢山いた方が良い。これは間違いない。助け合い、励ましあい、知恵を出し合って対処する。これが普通の姿なのだろう。
 色々見て経験したから、よっぽどの事がない限りは、動じることはない。しかし、死に向かう人を看取るのは、やはり疲れる。

 「ゆっくり来てくれて、大丈夫だから」と、かみさんに言われ、病院に向かっておった。10日前に発作が起き、3日が山ですと言われ、お母さんが泊り込み、山を越え、小さな変化はあるけれど、呼吸は安定していた。病人の付き添いは、2週間が限界らしい。強い心臓を持っていると、耐えれてしまうのだ。先週、親父さんの手を触ったら、温かいのだ。水分も点滴も取っていないのにまだ、身体の中にこれだけの熱を発する力を持っていると驚いた。身体が強い人なのだろう。

 明け方が山かなぁっと思い、明日の勤務を誰かに代わってもらわなければならないかなぁっと、ぼんやりと考えていた。俺が何をしてやることがあるのか?と聞かれると、大してやってあげられることはない。近くに居てあげる事ぐらいしかないであろう。言葉を掛けるにしても、なかなか気の利いたことなんぞ言える性質じゃないしな。口八丁手八丁の人が羨ましく思う。

 駅から、病院へはバスになる。土曜日だから、電車は思っていたほど混んじゃいなかったが、バスはそこそこ待っている。関東近県は、進めど進めど家が途絶えない。ランニングしておって、「こんなとこにも家があるんだ、どうやって会社に通っているんだろう?」と思うことがある。色んなとこに人が住んでおる。当たり前だけどな。
 
 家族が病気になると、見える世界が変るのだ。平凡に暮らしておる人達が不思議に感じる。自分自身も同じように平々凡々に暮らしておった筈なのに家族が病気になったりすると、世界が一変する。下らない疑問だが、何故、病気になってしまったんだろうと思う。過ぎ去ってゆく風景が静止画のように見えるんだ。俺は、義理の息子だから客観視出来る。家族は違うからなぁ。

 病院に着き、面会受付で、バッジをもらう。「行き方は、分かりますか?」「はい、大丈夫です」何度も来て居るから、行き方はよー分かる。4基あるエレベーターのうちの1基がすぐにやってきた。空いているんだなぁ。いつもなら、待たないとやってこない。
 1週間に1度やってくるから、病状の変化を感じる。先週は、まだ、手を動かし、温かかった。緩和ケア病棟は個室だ。冷静に考えれば、そこに入院している人たちは、痛みや苦しみを緩和するためにいるのだから、同室になって、他の人たちの苦しむ声を聞くだけでストレスになってしまう。おふくろが入院するとき、「ここには緩和ケア病棟はないからね」と言っていたのは、そういう意味だったのだ。

 挨拶をし、病室に入る。家族がみんな集まっていた。弟さんだけ、こっちに向かっている最中だ。
 薄目を開け、呼吸器をつけ、一定のリズムで息を吐いている。「身体は動かしているの?」「動かさない」「熱が出ていて」「今は?」「出ていない」少し温かいおでこを触りながら聞く。「すべてのエネルギーを中心に集めているんですって、手も冷たいの」
 穏かな顔を見つめ「きっと、いい夢を見ているんですよ」と答えた。肉体が苦痛を感じるようになると、脳が意識を守るために夢を見させるようになるのだと思う。目を開けていたとしても、病室には居らず、まったく別なことを見ているのだと思う。

 お母さんが「息子が来たよ」と言ってくれた。受け入れてもらっていることをありがたく思う。親父さんには、「受け入れてくれてありがとうございます」と言いそこねてしまった。ちょっとした瞬間を見逃すと、伝えるべき言葉を伝え損ねてしまうのだ。

 親父さんの手に手を重ね、「もう、心配することは何もないです、安心してください」と言葉に出して伝えた。ふと顔を見たら、目が動いたような気がした。気のせいだろうと思った矢先、はーっと吐いた息が止まった。「えっ?マジ?このタイミングかよ」と心の中で思った。「誰か呼んで」と言い、俺が親父さんの前にいる場合じゃないと思い、お母さんと代わった。

 「まだ、駄目だよ、○×△が着てないよ」「頑張って!」と声が掛かる。止まった呼吸が一度大きく呼吸をする。そして、又、止まる。「頑張って!」再び、呼吸をし、止まった。苦しむことなく、穏かに臨終を迎えた。家族に看取られて、親父さんは逝った。人は、こんなに穏かに逝くことが出来るのだ。

 それから20分ほどして、弟さんが来られて、「親父、悪い、間に合わなかったな」と声をかけていた。男にとって、男親は、こんな感じだろうと思う。これが、母親だと、大変なことになる。
 その後、弟さんに時間を取ってしまい申し訳なかったと謝った。「大丈夫、大丈夫、昨日、夜まで一緒に居たから」と答えてくれた。
 
 みんなに看取られながら、親父さんは逝った。険が取れ、穏かな仏の顔だった。人は、こうあるべきなのだろう。幸せな旅立ちだと思う。気性の激しい人だったと聞く、俺が接するときには、気難しそうな人でしかなかった。何であれ、苦しまずに逝けるのが何よりだ。見ている家族も辛いからな。旅立つ人に掛ける言葉は、感謝の言葉しかない。

 俺を家族として受け入れてくれて、本当にありがとうございます。

我流が本流

 暑くても関係なく、走ってはいる。以前の調子を取り戻そうと思って、走り、トレーニングをしている。50過ぎて何をやっておるんだ? と思われるかもしれないけれど、この年齢で結婚しちまって、先のことを考えざるをえなくなった。結婚するまでは、60歳まで生きりゃーよいと思っていた。
 俺がやりたいと思っておったことは、10年もありゃ完結するだろうと思っていたからな。死に方に拘りもなかったし、遠い異国で死ぬんだろうなぁっと思っていただけに180度の方向転換だ。

 結婚して、生活はさほど変わっておらんけれど、内面が大きく変わったと思う。末永く一緒に居るであろうから結婚した。けじめをつけようと思った訳でもない。一緒に住み始めて、同居生活に問題がなかったら、1年後に結婚しようと思っていた。それを実行したまでである。
 
 結婚してから、「50歳過ぎて、よく結婚したよねぇ」とか言われる。年食ってから、余計なことをやるのって、大変じゃない。体力いるし。しちゃった俺は、深くなんも考えておらんから言われてみて、「あぁそーだったんだ」と思う程度だ。

 結婚する前よりも、結婚した後の方が色々考えている。何といっても、まず、結婚のビジョンが出来ておらんかった。二人の人生計画みたいなもんが、これっぱかしも出来ていなかった。思春期の一番大事といわれる時期にくそ親父は居なくなったからな、父親像や、夫婦のあり方というものを一切知ることが出来んかった。一番身近な夫婦の形が壊れちゃっているんだからねぇ。まぁ、よく夫婦喧嘩しておったよ。小学生の頃、2回決定的な離婚の危機があって、おじさん、おばさんに預けられたことがあった。子供心に「俺たちは、引っ越しておふくろの実家の神奈川に引っ込むんだなぁ」と思ったが、この2回の危機は、どーにか切り抜けてしまい、友達に「夏休み過ぎたら引っ越すから」と言いまわっておったから、夏休み明けにちょっとカッコ悪いことになった。

 最終的に晴れて離婚したのは、中学2年のときだ。酒乱暴力おやじと別れられるし、広い家のおふくろ実家に引っ越すと思いきや、狭い借家に引っ越すことになった。おふくろは、引っ越して友達を失うよりは、狭いながらも楽しい我が家を選択した。俺と弟は、クーラーはなくなるし、風呂もない、おまけに二間だ。四畳半と六畳だったかな。おふくろにとっては、大変な冒険だった筈だ。結婚して、10数年働いたことなんかなかったのに働きながら子供二人を育てなければならないのだから大冒険だ。俺と弟は、縮小した生活に文句ばっか言っていたからな、おふくろも困っただろうな。
 だからといって、くそ親父と一緒に居ったとしても、どーしようもない父親像を継承しておったことであろう。おふくろの判断は間違っていなかった。

 人は、当たり前だけど、身近に居るもんから影響を受けるもんだ。俺は後追いだけれど、おふくろの生き方を考えるようになった。おふくろがよく言っていたのが、おふくろ、弟、俺の3人の生活が大切なものになる言っていた。その当時は、何でこんな貧乏な生活がと思っていたけれど、二人がいなくなって振り返ると、やはり、大切な生活だったんだな、俺の基本になっている。もっと、おふくろの力になってあげれたのに自分のことばっか考えていたなぁ、それは偏に俺が弱かったからだと反省している。

 家族の営みっちゅーか、一緒に居るということは、大切なことなんだと思う。当たり前なんだけれど、それが今は出来なくなっている。家族の中で、パーソナルスペースが重要視されている。最近じゃ、知らないことを教えてくれるのは、スマホということなっているようだ。確かに判らんことがあれば、数秒で答えは出るだろうけれど、それは答えだけがポンと放られただけで、本質は、そこにはないのだ。
 
 家族を作るって、友達を作るのとは訳が違う。街中で声を掛けりゃ出来るっちゅーもんじゃない。かみさんとは、縁があって一緒になった。俺の姓を名乗ってくれている。嫁に来てくれたってことだよね。家族いねぇから、家族に紹介することはなかったから、ヤマケン、阿久雄に紹介した。小さい家族だけれど、俺はおふくろ、弟が名乗っていた姓を名乗っている。だから、大切に守って行かなければいけないんだ。今更ながらにそー思う。俺に出来ること、俺にしか出来ないことをやってゆけばいいのだ。誰に習うでもなく、自分自身が正しいと思うことをしてゆけば良いと思う。

 おふくろは我流の人だった。誰に習うでもなく、自分自身の生き方を全うした。俺もそれに習えば良いのだ。

頭の中は、整理され、刈り込まれているのがよろし

 職場に俺の歳の半分のヤツが居る。俺の職場って、比較的年齢層が低いんだ。そんな中で俺は、しっかりと、上位ランキングしている。そんな俺の半分のヤツから、「どんな本を読んでいるんですか?」と言われ、又、「お勧めの本はありますか?」と聞かれた。俺にそんなことを聞いて来るヤツなんて、なかなかのつわものだ。

 さて、どこら辺から語ってやればいいか。そもそも俺んちは、誰も本を読むヤツが居らんかった。読書家になるには、家族に読書家が居るもんだ。その影響をまともに受けて読むようになる。手の届くところに本があり、気軽に本に親しむ関係がなければ読書家にはならん。

 俺は、何故に本を読むようになったか? 十代の頃、暇で金がなかったからだ。やることがなく、金がないから、本でも読んでみるべぇとなった訳だ。おふくろも本を読んでいる分には、何も言わんかったしな。はじめは手近にある本から手を出した。親父がまだ、家に居るころに買ってもらった星新一の「気まぐれロボット」から読み始めた。読められることなく、ずーーっと放置されておった本が、やっと活躍の場を得た訳だ。
 
 それから、目に付く本を片っ端から読み始めたのかな。簡単なとこで、映画の原作本から手を出した。色々読んだが、2回の引越しで殆ど捨てたり、売っぱらった。そして、精神分析学と心理学に興味を持ち読み始める。あれだあれ、フロイト。十代の頃に何故かフロイトに行き着くんだ。ネットなんかない時代にどーやって行き着いたのか覚えておらん。雑誌か、読んだ本の解説に載っておったのかもしれない。自分自身の精神構造を理解するために読み始める。うちの家系には、精神疾患の気があり、俺自身もその気があったから、そいつを治そうとしたんだなぁ。色々本を読み漁ったけれど、最終的には、自分自身で解決の糸口を見つけるしか術がないということに気づく。ここら辺で、精神分析、心理学に見切りをつけた。何故かって? 特定の形にしか、効力がないから。

 それから、文学の方に今更ながら傾いてゆく。本を読み続けておると、読む力が付いてくる、読む力が付いてくると、それなりのレベルのもんを読めるようになってくる。精神分析学、心理学もそうだが専門用語があり、それを分かっておらんと、理解が出来んのだ。これは、どんな分野においても一緒で、それなりの知識が備わってこないと理解することが出来ん。当たり前だな。

 基本、俺は、人に聞くことをせんから、本から何かを得ることが多かった。だから、悩み事があると、闇雲に本を読み続ける。そして、読んだ本の中から解決策を見出してゆく。今は、そんなことをせんでも頭の中で、解決策を見出すことが出来る。半世紀も生きてくれば、それくらいのことは出来るようになる。

 この解決策を導く出す能力を身につけたため、哲学に手を出すようになる。色々な本を読んだが、哲学にだけは手を出していなかったんだ。哲学のイメージが嫌いだったんだろう。眉間に皺を寄せて考え込んでいる姿がよろしくない。だが、俺が暗中模索でやろうとしていたことが哲学だったということに読んでみて気がつくことになる。そして、哲学ばっか読むようになる。そんな本ばっか読んでおったから、おふくろは、俺がおかしくなるんじゃないかと思っておったらしい。諸刃の剣ではあるな。

 俺は、相変わらず、読むの速くはない。速読に挑戦したが上手くゆかんかった。普通の人よりは速いけれど、速読ではない。だから、あるとき、これから先、どれくらい本を読めるのだろうか?と考えた。これだけ世に本が出ておる。その本を死ぬまでに全部読むことなんか出来はしない。これからも興味をそそられる本は出版される。ジャンルを決めて読むべきだと思った。結果、ノンフィクションだけに絞ることにした。

 ノンフィクションといっても、事件や犯罪物という訳ではない。俺の中では、哲学書もそれに入るし、歴史書もそうだし、思想も、経済もそうだ。逆に読まんのは、ゲーノー人本とか、流行本とか、ミステリーもんとかかなぁ。流行本は面白いけれど、後に何も残らない。小難しい本ばっか読んでおって、切り替えるために肩のこらない本は読むな。

 お勧めの本か、定期的に読み直す本にデカルトの「方法序説」がある。哲学の基本の書だな。確か、哲学の本は、これから入っていった気がする。そして、俺の好きな哲学者はバートランド ラッセルだ。この人の本も、読み直す。この人の「幸福論」は、生きるべき指針を見つけるに役に立つ。若いうちに煮えきらず、カオス化している頭の中をカンブリア紀に導くことが出来る。

 カオス化し、発想が際限なく出てきはするけれど、具体化せず、どーしようもないときに本は必要なんだと思う。交わることがないはずの先人の知恵を学ぶことが出来る。本は、そーいうもんだ。ネットで抜粋だけを読み、分かった気になるのは、危険だっちゅーことだ。それほど高いもんでもないから買ってみるのも悪くないよ、とか言ったのかな。

 デカルトなんか出てきちゃったから、「方法序説」でも読み直すかな。頭の中は、刈り込まれ、整理されておるのがよろし。

光陰矢の如し

 5月23日に久しぶりにライヴを観に行った。かみさんと一緒にである。ドガドガガンガンのバンドじゃないってことだ。前々から観てみたいなぁ~~っと思っていた、井上陽水

 俺と陽水って意外かもしれないけれど、何気にリスペクトしているんだよ。耳に残りやすいメロディーに人の心に突き刺さる言葉の選択と、侮れんところがあるじゃないの。フォークというカテゴリから飛び出ちゃっているところがある。俺らの一つ上の世代にとっちゃおなじみの人だろう、俺らのフォーク世代というと、第2次フォークブームっちゅー感じで、ちょいとばかり洗練された感がある。陽水の時代って、学生闘争、ベトナム戦争がリアルタイムに挟まっているから、思想的な部分があるんだと思う。「氷の世界」が当時、100万枚売れたってことも凄いよな。あのアルバムをちゃんと評価出来る時代だったってことだよな。今は、こんな難解なアルバム売れるわけがねぇ!!!

 しかし、ライヴのチケットを取るのが面倒になったねぇ、先行抽選があって、こいつに漏れると発売当日にパソかスマホ片手に必死こいてチケットゲットせにゃならん訳さ。今回、運良く先行抽選に当たり、良い席が御用意されたわけだ。

 当日、17:30開場前に国際フォーラムに着いた。ここは、音が良いんだよねぇ、おまけに席幅が大きく出来ておるし、席の配置がジグザグにしてあるから座っておっても観づらいってことがない。あれだけデカイのに5000人ちょっとしか入らない。ここでねぇ、ジェフ・ベックを2回に観ておる。はじめは、2階席だった。2階なのに観易いのよ。次が1階席だった。
 今回は、1階の左よりの前から15列目でございます。左に寄っちゃっているのが残念だけれど、これだけ前から観れるのは良いねぇ。年齢層は、俺よりも高い方々、陽水が70歳だからねぇ致し方ない。そうそう、今回のツアーの題目は、50周年記念ライブツアー『光陰矢の如し』~少年老い易く 学成り難し~

 開演は、18:30、外タレだと定時に始まるなんてことはないけれど、陽水も70歳引き伸ばしてど~うのという感じじゃないし、皆さん着席して待たれておりますよ。そして、18:35徐々にライトが落ちてゆき、ライヴスタート!! ワァーーーという歓声と共に陽水登場。
 
 1曲目は、俺に馴染みがない「あかずの踏切」氷の世界の1曲目なんだけれど、当時としちゃフォークではなく、ロックなんだよねぇ。でも、音が割れてんでぇ! PAちゃんとやれよなぁ、生陽水を聴きに来ているのに割れて埋もれちゃ駄目だろ!

 3曲目の「5月の別れ」のアコギの音に乗り陽水の歌声が淀みなく届くようになった。上手すぎ、当たり前だけれど、歌上手すぎ。そして、猛烈な存在感と、説得力かなぁ、凄いわ。

 曲の合間に肩の力が抜けた陽水の語りがある。会話の間にある妙な間は、年齢によるものらしい。長いことやってきて、この間でも笑ってもらえるようになったと言っていた。独特の語り口と、曲の持っている緊張感のギャップが不思議であるし、それが感動を呼ぶのかもしれない。

 ギター1本で、東京にやってきて、一人だったのに50年の間にいつの間に家族も増え、娘が誕生したときに書いた曲ですと紹介があり「海へ来なさい」が歌われた。持っていたCDの中に入っていたんだけれど、気にもしていなかった。切々と歌う陽水の言葉に耳を傾けていたら、涙が出てきた。曲を聴いていて涙が出てきたのは、初めてだなぁ、おっさんになったのかなぁっと、思ったら、かみさんも同じ曲で涙が出てきたと言っていた。あぁ同じ感性をしているのかぁと思った。

 そして、清志郎との競作の曲の製作過程が語られ、「お前がこー作るんだったら、こーしちゃおうかなぁ」っと、作ったのがと語られ、「帰れない二人」が歌われる。俺の大好きなギターリスト今堀恒雄アコースティックギターが冴え渡る。そして、ドラムは、これ又、俺が大好きな山木秀夫だった。66歳とは思えないパワフルなドラムワークである。パパッと作られたように語られているけれど、そんなことあるわけねぇじゃん。 

 「皆さまに大切なお知らせがあります、これから15分間休憩になります」 客層が高齢だから、気を遣っているのか、陽水が休憩したいのか定かではないけれど、一斉にトイレにGOである。俺も最近頻尿だから、トイレにGO!

 メドレーで、7曲こなし、「氷の世界」で1度引き込み、アンコールで3曲歌い、ラストは、「傘がない」である。ラストにこれを持ってきちゃう? と思った。テレビでインタビューに答えていたけれど、「うーーん、どういったらいいのか分からないけれども、この曲には、意味があると思うんです」と答えておったけれど、あなた、散々この曲を流しておいて、今更、そんなことを言われてもと、思ってしまった。天然なのか、計算なのかよー分からないけれど、歌が恐ろしく上手く、説得力があり、存在感があるアーティストは、少なくなった。時代を越えるとメッセージが色あせてしまう曲が多い。50年聞き継がれ、影響力を与えるのは、大変なことだ。50周年おめでとうございます。夫婦揃ってよいもんを見せて頂きました。

 

5月23日 国際フォーラム セットリスト

あかずの踏切
アジアの純真
Make- up Shadow
5月の別れ
青空、ひとりきり
新しいラプソディー

移動電話
海へ来なさい
心もよう
帰れない二人

(休憩15分)

女神
カンドレ・マンドレ (以下7曲メドレー)
闇夜の国から
ダンスはうまく踊れない
飾りじゃないのよ 涙は
とまどうペリカン
ワインレッドの心
ジェラシー

少年時代
リバーサイドホテル
最後のニュース
夜のバス
氷の世界

アンコール

御免
夢の中へ
傘がない