我流が本流

 暑くても関係なく、走ってはいる。以前の調子を取り戻そうと思って、走り、トレーニングをしている。50過ぎて何をやっておるんだ? と思われるかもしれないけれど、この年齢で結婚しちまって、先のことを考えざるをえなくなった。結婚するまでは、60歳まで生きりゃーよいと思っていた。
 俺がやりたいと思っておったことは、10年もありゃ完結するだろうと思っていたからな。死に方に拘りもなかったし、遠い異国で死ぬんだろうなぁっと思っていただけに180度の方向転換だ。

 結婚して、生活はさほど変わっておらんけれど、内面が大きく変わったと思う。末永く一緒に居るであろうから結婚した。けじめをつけようと思った訳でもない。一緒に住み始めて、同居生活に問題がなかったら、1年後に結婚しようと思っていた。それを実行したまでである。
 
 結婚してから、「50歳過ぎて、よく結婚したよねぇ」とか言われる。年食ってから、余計なことをやるのって、大変じゃない。体力いるし。しちゃった俺は、深くなんも考えておらんから言われてみて、「あぁそーだったんだ」と思う程度だ。

 結婚する前よりも、結婚した後の方が色々考えている。何といっても、まず、結婚のビジョンが出来ておらんかった。二人の人生計画みたいなもんが、これっぱかしも出来ていなかった。思春期の一番大事といわれる時期にくそ親父は居なくなったからな、父親像や、夫婦のあり方というものを一切知ることが出来んかった。一番身近な夫婦の形が壊れちゃっているんだからねぇ。まぁ、よく夫婦喧嘩しておったよ。小学生の頃、2回決定的な離婚の危機があって、おじさん、おばさんに預けられたことがあった。子供心に「俺たちは、引っ越しておふくろの実家の神奈川に引っ込むんだなぁ」と思ったが、この2回の危機は、どーにか切り抜けてしまい、友達に「夏休み過ぎたら引っ越すから」と言いまわっておったから、夏休み明けにちょっとカッコ悪いことになった。

 最終的に晴れて離婚したのは、中学2年のときだ。酒乱暴力おやじと別れられるし、広い家のおふくろ実家に引っ越すと思いきや、狭い借家に引っ越すことになった。おふくろは、引っ越して友達を失うよりは、狭いながらも楽しい我が家を選択した。俺と弟は、クーラーはなくなるし、風呂もない、おまけに二間だ。四畳半と六畳だったかな。おふくろにとっては、大変な冒険だった筈だ。結婚して、10数年働いたことなんかなかったのに働きながら子供二人を育てなければならないのだから大冒険だ。俺と弟は、縮小した生活に文句ばっか言っていたからな、おふくろも困っただろうな。
 だからといって、くそ親父と一緒に居ったとしても、どーしようもない父親像を継承しておったことであろう。おふくろの判断は間違っていなかった。

 人は、当たり前だけど、身近に居るもんから影響を受けるもんだ。俺は後追いだけれど、おふくろの生き方を考えるようになった。おふくろがよく言っていたのが、おふくろ、弟、俺の3人の生活が大切なものになる言っていた。その当時は、何でこんな貧乏な生活がと思っていたけれど、二人がいなくなって振り返ると、やはり、大切な生活だったんだな、俺の基本になっている。もっと、おふくろの力になってあげれたのに自分のことばっか考えていたなぁ、それは偏に俺が弱かったからだと反省している。

 家族の営みっちゅーか、一緒に居るということは、大切なことなんだと思う。当たり前なんだけれど、それが今は出来なくなっている。家族の中で、パーソナルスペースが重要視されている。最近じゃ、知らないことを教えてくれるのは、スマホということなっているようだ。確かに判らんことがあれば、数秒で答えは出るだろうけれど、それは答えだけがポンと放られただけで、本質は、そこにはないのだ。
 
 家族を作るって、友達を作るのとは訳が違う。街中で声を掛けりゃ出来るっちゅーもんじゃない。かみさんとは、縁があって一緒になった。俺の姓を名乗ってくれている。嫁に来てくれたってことだよね。家族いねぇから、家族に紹介することはなかったから、ヤマケン、阿久雄に紹介した。小さい家族だけれど、俺はおふくろ、弟が名乗っていた姓を名乗っている。だから、大切に守って行かなければいけないんだ。今更ながらにそー思う。俺に出来ること、俺にしか出来ないことをやってゆけばいいのだ。誰に習うでもなく、自分自身が正しいと思うことをしてゆけば良いと思う。

 おふくろは我流の人だった。誰に習うでもなく、自分自身の生き方を全うした。俺もそれに習えば良いのだ。