五十の舞 その1

 昔っから50歳を節目と考えておった。 漠然とだけれど、50歳までは今と同じペースでこれたらよいな思っていた。 体力も落ちるだろうが、まだ行けるという自覚が持てるのなら、このペースで、先に進んでゆこうという節目だ。 この節目は、世界を冒険出来るかどうかの判断として考えていた。 その尺度をどうするかは、考えていなかったんだ。  

 一人ぼっち、自由であるという強みはある。 弟、おふくろといなくなって、生活を維持することを考えていた。 まぁそれが、弟、おふくろを心配させない手段だからな、ちゃーんと人に迷惑をかけずに生活してまっせという訳だ。 ふと、思った 「誰も、居らんってことは、自由なんじゃないか? 世界に出てもいいんじゃないか?」 おふくろが死んで、1年も経ってから気づいたんだ。 粛々と生活しておったからなぁ、どうにかせにゃならんということを考えて済むことに気がつかなかったんだ。 これに気づいたことが良いことなのか悪いことなのか、判らんけれどな、いずれ気がついた筈だ。 俺の性分からいって、世界に出れると思えば、出てゆくだろう。 

 その作戦実行中に彼女に出会い、計画を中止した。 もう一つの世界を選択したのかな。 誰かがそこに待っていてくれるということは、嬉しい。 俺がバカみたいにマラソンのレースに出て、待っていてくれて、完走したことを喜んでくれる人が、友人以外に居って、とても身近に居るのだ。 おふくろ死んでから、マラソンに出て、完走したメールをいの一番に出す相手がいなかったことにそこで気がついた。 

 今期のレースは、そんな訳で、レースチョイスからいつもと違っておった。 去年、彼女の地元の川越でレースがあると判り、じゃー出てみようかなと、川越マラソンをエントリーした。 如何せん埼玉県だから、俺んちから遠いんだな。 秩父、彼女んちに足蹴に通うようになり、埼玉を拠点に動くことが多くなり、早起きになった。 早起きは基本、苦じゃないんだ。 寒さに弱いんだなぁ、マラソンって基本、冬場がオンシーズンだからさ。 俺がマラソンの中で、嫌いなのは、寒いのと、風! この二つが大嫌い。 だが、冬場、この日本柱を避けるなんちゅーことは出来ない、仮面ライダー1号、2号、風神、雷神、アムロ、シャアのワンセットの如く、当たり前のようについてくるのだ。 

 あとさ、埼玉と東京って、気温差が体感で感じるくらいに違う。 

 川越エントリーした時期と同じくらいに青梅マラソンのエントリーがあった。 今から8年位前に出た。 マラソンをやり始めて間もなく、有名なレースに出てみようと思いエントリーした。 前年雪で中止になり、翌年念願の出走だった。 とても印象深く、峠道を上って帰ってくるレースで、苦しんだ覚えだけはあるが、どれ位苦しかったかを思い出せん。 俺は、アホなのかいつも、レースがどれ位苦しかったかを忘れるんだな、「はて? 苦しかったけれど、どんなもんだったか?」 そして、走り出して、「やっぱ苦しいじゃん!!」 と心の絶叫がある。 

 青梅マラソンをエントリーし、それに向けて、レースと練習を組んでゆくことにした。 これで、50の節目の目標が出来たじゃん!となった訳だ。 

 マラソンで何が面倒だって、やってるヤツに聴けば、100%同じ答えが返ってくる。 練習だよ、練習、こいつが一番面倒くさいし、大変。 当たり前だけれど、みんな仕事を持っているわけで、その合間を縫って練習をする。 肉体労働者は、普段から身体を使って疲れさせておるのに更に走って疲れさせるのだ。 端から見ていると、理解不能だろうな。 休ませるために休日があるのに休まずに走るのだ。 でも、練習しないと、レースがきついし、完走さえ出来ん。 歳を食って、練習量と、本番のレース時の誤差が大きくなっている。 以前は、ハーフを走るんでも10キロまで、練習しておれば、走りきれたのだが、今は誤差5キロだな。 この5キロも七転八倒してゴールだ。 この年齢になると、ジャストの距離を練習で走っておかんと、のた打ち回る! あと、目標のレースがあるのなら、それまでの間にハーフを走れる限り走っておいたほうが良い。 

 川越で貧血で倒れ、彼女に介抱してもらい、立川で急転直下の太腿を攣るというアクシデントがあったが完走。 立川昭和記念公園は、適度なアップダウンがあり、良い予行練習になった。 そして青梅に辿り着いた。