神の与えしもの

 刻一刻と刻まれておる時間は一定であり、感じ方の違いはあれ、とりあえずは平等に刻まれておるという事だ。 1日という時間があれば、それの使い方は、千差万別である。 労働時間も違うだろうし、通勤時間も違う、食事に要する時間も違う。 同じ使い方をするもんは、この世に居らんな。 使い方は違えど、そのペース配分は各自、判っておるんだろう。 当然、俺も判っている。 

 時間と、考えるキャパというのは、一定だと思っている。 そいつが変化する場合、考え方の場合には、能力の向上によって、キャパ事態を増やすことが可能だが、時間に関しては、無理なんだな。 確かに睡眠時間を削るとか、仕事の処理能力が上がったとしても、時間は、一定スピードでしか刻まれない。 増やすことは無理だという事だ。 脳に勘違いをさせて、時間が増えたように感じさせることもあるようだが、それは、動物として、何かに逆らってしまっていて、最終的には、駄目になってしまうと思っている。 

 俺もそれにもれずに時間は、一定で刻まれ、持ち時間も変わらん。 変わらないのだが、生活が激変した為に時間の割かれ方が変わってきている。 俺にとっては、良い時間の使われ方をしている。 この3年間、地味な生活を送っておった。 なんだろう、変化を毛嫌いする生活を送っていたのかな。 俺一人になってしまったから、それに対して、身構えるように生きていたのかもしれない。 遅刻もせずに仕事をし、終わると買いもんをし、飯を食って、走って、寝るっちゅー生活かな。 不思議と淡々と生活をしていた。 
 まぁ、10年ほど、おふくろの調子が悪く、それをケアするような生活を送っていたこともあるのだろう。 俺が運が良かったのは、おふくろの病状が、一気にスパークするのではなく、徐々に悪化していったから、それに対応することが出来たのであろう。 それを考えると、「神は、一人一人に背負うべきものを用意している」 という言葉は、判る気がする。 

 色々な事を準備するのにこれだけの時間が掛かったという事なのだ。 俺は、時間を共有する人が見つかり、ごく自然にその人と喋ったり、一緒に居る時間が楽しい。 時間の使い方に変化が訪れた。 出会いも、神の与えしものと思える。 こんなことを書いておるが、神の存在は、信じておらん! とまでは言わないが、以前と変わらず無神論者だ。 彼女との出会いについては・・・いずれ、又。