10時を回ったとこだ。 まだ、先は見えない。 山の地図を見るのが苦手だから、ちゃーんと、計測しておらんから、どれ位で着くかが判らん。 山の地図をしっかりと見れれば、登坂の具合や、距離、時間まで、分かるのだろう。 あとから聞いたのだが、山の横っちょにH550とかって書かれているんだ。 高さを表しているんだな。 俺は、そんなことも考えず、体力勝負のアホな登り方だ。 疲れてくると、身体が前に倒れてくる。 前に倒れちまうと、踏ん張りが効かなくなるのだ。 トレッキングやっている連中は、腹筋とか、しっかり割れているもんなぁ、確かに腹筋使うよ。 それと、登山家が極限まで、荷物の軽量化に挑む意味は分かる。 荷物がコンパクトで、軽量であるというのは、重要だ。
金剛杖も、バランスを崩しそうになると、突く様になっていた。 「疲れてくると、使うようになるから、買った方がいいですよ」 おじさんが、そんなことを助言してくれた。 確かにその通りだ。 おかしいなぁ、何でこんなに時間が掛かっているんだ? 自問しちまっている。 基本、苦しいことから、一刻も早く脱したいから、一生懸命やるんだ。 マラソンにしても、その苦痛から逃れたいから、必死こいて走るんだ。
そこには、矛盾がある。 苦痛から逃れたいってことは、苦痛が嫌いってことだろ? なのに何故、苦痛に自分から、突っ込んでゆくんだ? 判らんなぁ、自分のことだろ? 修行? そんな大それたもんじゃないな、俺だけじゃないじゃん、みんな、何で、こんなことをしているんだ? 苦しいこと判っていて、重たい荷物を背負い、歩いて、登っている。
確かな証しが欲しいんじゃないのか? 俺が誇れるものって、一体なんだ? 学がある訳じゃなし、家柄が良い訳じゃなし、当然、金もない。 財産がある訳でもない。 俺の証しって何だ?
多分、俺というアイコンだと思う。 金も、価値もないけれど、俺というアイコンだけが証しであり、偽りないものだといえる。 当たり前のことだけれど、俺にとって、間違いないものは、俺自身でしかないのだ。
そんなことを思いながら、階段を上っておったら、濃霧の先に何かが見える。 何だ? 巨大な杉の木を背負った弘法大師が現われた。 浄蓮庵の一本杉だ。 あまりにも神秘的にあまりにも突然に現われた。 その力強さにちょっとばかり、引いた。 なんだろう、励まされているんじゃないんだ、その大きさにひれ伏すというのかな? そんな感じだ。 ロングプレイゲームで言えば、「新しいアイテムを手に入れた」 って、ところかな。