Henro walker 5月15日

 10時を回ったとこだ。 まだ、先は見えない。 山の地図を見るのが苦手だから、ちゃーんと、計測しておらんから、どれ位で着くかが判らん。 山の地図をしっかりと見れれば、登坂の具合や、距離、時間まで、分かるのだろう。 あとから聞いたのだが、山の横っちょにH550とかって書かれているんだ。 高さを表しているんだな。 俺は、そんなことも考えず、体力勝負のアホな登り方だ。 疲れてくると、身体が前に倒れてくる。 前に倒れちまうと、踏ん張りが効かなくなるのだ。 トレッキングやっている連中は、腹筋とか、しっかり割れているもんなぁ、確かに腹筋使うよ。 それと、登山家が極限まで、荷物の軽量化に挑む意味は分かる。 荷物がコンパクトで、軽量であるというのは、重要だ。 

 金剛杖も、バランスを崩しそうになると、突く様になっていた。 「疲れてくると、使うようになるから、買った方がいいですよ」 おじさんが、そんなことを助言してくれた。 確かにその通りだ。 おかしいなぁ、何でこんなに時間が掛かっているんだ? 自問しちまっている。 基本、苦しいことから、一刻も早く脱したいから、一生懸命やるんだ。 マラソンにしても、その苦痛から逃れたいから、必死こいて走るんだ。 
 そこには、矛盾がある。 苦痛から逃れたいってことは、苦痛が嫌いってことだろ? なのに何故、苦痛に自分から、突っ込んでゆくんだ? 判らんなぁ、自分のことだろ? 修行? そんな大それたもんじゃないな、俺だけじゃないじゃん、みんな、何で、こんなことをしているんだ? 苦しいこと判っていて、重たい荷物を背負い、歩いて、登っている。 

 確かな証しが欲しいんじゃないのか? 俺が誇れるものって、一体なんだ? 学がある訳じゃなし、家柄が良い訳じゃなし、当然、金もない。 財産がある訳でもない。 俺の証しって何だ? 

 多分、俺というアイコンだと思う。 金も、価値もないけれど、俺というアイコンだけが証しであり、偽りないものだといえる。 当たり前のことだけれど、俺にとって、間違いないものは、俺自身でしかないのだ。 

 そんなことを思いながら、階段を上っておったら、濃霧の先に何かが見える。 何だ? 巨大な杉の木を背負った弘法大師が現われた。 浄蓮庵の一本杉だ。 あまりにも神秘的にあまりにも突然に現われた。 その力強さにちょっとばかり、引いた。 なんだろう、励まされているんじゃないんだ、その大きさにひれ伏すというのかな? そんな感じだ。 ロングプレイゲームで言えば、「新しいアイテムを手に入れた」 って、ところかな。