限界っす

 知識がないというのは、ある意味では、幸せだと思う。 無知がよいと言っているわけではない。 それだけ、知るべき事が沢山、世の中に溢れているということである。 俺のように教養がスカスカなヤツは、出くわすもん出くわすもん、目新しいもんが多い。 新しい電化機器や、新しいソフト、新しいプレイスポット、世の中には、興味を涌かせるもんが沢山ある。 何をチョイスするかは、各人の自由である。 
 俺は、自分の頭の使い方の修正に躍起になっておったけれど、別段、そんなもんは、大切なもんじゃなく、頭の中で起きている出来事は、際限なく広がる世界でしかない。 その際限なく広がる世界は、その世界の住人は、俺一人しか居らんわけだ。 まぁ、これ誰でもそうなんだけれど。
 そこで、大切になってくるのは、その世界から脱すること。 単純なことだ、行動をすることである。 それによって、世界は、生きてくる。 
 よーく考えてみると、過去というのは、実は、今なんだよなぁ。 過去の出来事の歴史を語っているのではなく、それを振り返る、学ぶ、後悔する。 まぁ、なんでも良いんだが、感情の中で、出てくる 「過去」 ってヤツは、当然だが、既に起きたことを語っているわけで、その起きたことを語っている者は、生きているものである。 すなわち、これは、今ということになってしまう。 過去を語るということは、今を語るということになるのだ。 じゃー本当の意味での過去は? 過ぎ去って、戻ることは出来ない次元ということになる。 だから、過去を語るということは、現在進行形に含まれていることになる。 論語による展開は、幾らでも解釈が出来、叉、語ることが出来る。 だが、起きていること、起きたことは、隠しようがない事実であり、それを解釈、語り始めると、幾らでも際限なく広げる事が出来る。
 個人、個人の頭のなかなんてぇもんは、こんなもんである。 だから、科学者は、実験をやり、裏づけを取り、立証する訳だ。 

 久々に古典と言われるもんを読んだ。 「論理哲学論考」 古典と言われるもんは、無駄な言葉はない。 だから、どれ一つとして、取りこぼしちゃなんねぇよってことになる。 読んでおって思ったけれど、これで全部、ちゃんと理解出来て、説明できるんだろうか? 出来る人は、出来るんだろうなぁ、俺は、出来ないけど。 超豪速球のストレートにかすった程度さ。 はるか昔のソクラテスの時代から、人は、そんなことばっか考えておって、未だに 「これだ!」 という考えは、生まれてこん。 まぁ、哲学書は、ある考え方の教科書でしかない。 だが、それは、この流派で、考えるのなら、これ1冊でOKって位に研ぎ澄まされている。 
 だから、一人、一人の考えが、際限なく広がるのであれば、それは、それで、一人ずつ認めてあげなければならんということになってしまうのだ。 だが、認めるにしても、語るほうも、否定するほうも、しっかりと、理にかなった物言いをしなければならんのだ。 

 「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」 by ウィトゲンシュタイン