ベッドからのアングル

 俺が椎名誠をはじめて読んだのは、NYに長期滞在しておるときだった。 読み代を持っていったのだが、全部読み終わっちまって、英語が堪能じゃないから、日本語が恋しい、現地の紀伊国屋で買った。 NYの紀伊国屋が笑っちまうんだが、日本の本屋の配列そのまんまだった。 店の中は日本である。 只、唯一違うのが値段。 倍近くの金額になっておった覚えがある、当然、ドル表示。 

 椎名誠の定番、「わしらは怪しい探検隊」 を買って読んだのだ。 まぁ面白かった、異国の地で、そこに満載された日本語に興奮し笑い転げた。 あぁこんな、キャンプの仕方があるんだと感銘を受けた。 当然、二十代前半の俺は、そのキャンプのスタイルを真似た。 酒を飲んで、好き勝手に遊ぶというキャンプスタイルを確立した! そして、焚き火の面白さも知る。 焚き火は、人を興奮させ、落ち着かせる不思議な効果がある。 人の中には、本能的に火を見ると興奮するようになっておるんだと思う。 

 そんな椎名誠も、70歳を越えているのだ。 俺が人生半世紀を迎えつつあるのだから、椎名誠も歳を食うわけである。 最近の還暦の方々は、若いよな、戦時中と食いもんが違うし、生活スタイルも違うからだろう。 民間療法の毛が生えたような健康法ではなく、それなりに健康法の確立がされた。 ちゃんとメンテナンスを行っておけば、そこそこの若さを保つことは可能になった。 本屋にシニア向けの雑誌が出ているのには、笑った。 作るな、読むなとは言わないけれど、その年齢になったらさ、まぁ生き方を確立しようぜ。 

 70を越えた椎名が語るのは、死生観である。 うーーん、遂にという感じだ。 カヌーで川を渡り、馬を乗り回し、キャンプで、酔っ払っておった椎名が死について語ってしまうのだ。 

 以前は、硬い本を読んだあとの息抜きに椎名の本を読むのがパターンだったのだが、どの本だったか忘れたが、鬱病になったこと語った本があって、それを読んで以来、ちょっと遠ざかっておった。 何故だろう、椎名誠鬱病になっちゃいかんというイメージを持っていたから、次にどんなことを書かれるか、不安だったのかもしれない。 ビリー・ジョエルのナイロン・カーテンのライナーノーツに 「人は、必ず、精神科の扉を叩く」 とビリーが語っていた。 ビリー・ジョエル自身も、精神的に参ってしまい、精神科にのお世話になったことがあるってことだ。 

 今回、読んだ本は、「ぼくがいま。死について思うこと」 まぁ、ずばりの題名である。 

 何故にこんな題名の本をチョイスしたか? やっぱ、椎名誠が持っている死生観に興味があったのだろう。 俺自身も、弟、おふくろと死んでおるから、死に関しては、受け入れることが出来る。 死体を見ても、それほど、驚かない。 ここら辺のことは、慣れだけでは解決しないところがあるらしい。 自我の部分で、死をどういう風に受け止めておるか? ということが左右するんだと思う。 
 前半、異文化の葬式を紹介しておる。 盆があったり、墓参りの日が決まっているのは、アジア圏の慣習だろう。 欧米あたりは、墓参りの習慣もないし、命日をそれほど、重要視しておらん。 墓にしても、基本、一人に一つずつなのだ。 
 今でこそ、日本も火葬であるが、ちょっと前まで、土葬だった。 時代劇に出てくる漬物樽のデカイヤツに納まって埋められていたのだ。 結局は、土地が狭いということがあり、火葬で焼いて骨壷に納めるのがよろしいってことになったのだろう。 それに衛生的だからな。 

 チベットの鳥葬っちゅーのが紹介されておる。 昔、アニメのデビルマンで、チベットに行く巻があって、デーモン族に現地人が操られて、ハゲタカの餌にされそうになるという場面が出てくる。 これは、チベットという場所柄の話しかと思ったら、そーじゃなく、山の高台にそーいう場所があり、遺体をそこに放置し、ハゲタカやら、獣に食わせて骨だけにするのだ。 俺たち、日本人からすると、「なんてことすんだ!」 と思うが、チベットじゃこれが、普通らしい。 アジア圏特有の生まれ変わりを新興しておるから、生まれ変わったとき、以前の身体が存在することがまずいかららしい。 そして、それは、人間になるとは限らず、みんな是非とも人間に生まれ変わりたいとは思っていないようなのだ。 仏陀の話で、そんな話しがあったな、連れていたロバかなんかが師匠の生まれ変わりと気づき、挨拶をする話しがあった。 

 おふくろが癌で入院しておるとき、いつもの看護士の人じゃなくって、ちょっと理屈っぽいっちゅーか、痛い目を見たのか、俺に 「延命措置はしないと聞いてますが、どこまでやればいいんですか?」 と聞かれた。 どこまでって言われてもさ、俺は、よー判らんよ。 俺のイメージとしちゃ、いよいよお迎えが来て、心臓止まって、世間一般で言う 「ご臨終です」 と言われてから先、なんもしませんよというイメージだった。 事細かに言われても困る。 大概、こーいうことを言う人は、患者さんと何だかのトラブルになった経験があり、そー言うんだろうなぁっと、思った。 

 そこで書かれておったことで、末期の友人の見舞いに行った話が出てきて、ふと思った。 「俺は、いつも、ベッドに横たわっている人しか見ていない 俺がベッドから見ているアングルを知らないな」 と、ベッドから、世界はどういう風に映るのだろうか? 気持ちも、身体もすべて違うのだろう。 いずれ、俺自身もベッドから、俺を見舞いに来てくれる人たちを見ることになるのだろう。 

 人は、いずれ死ぬ。 それは分かっておるが、自分自身が生きておる限りは、死んだらどうなる? っていう問に答えることは出来ない。 霊能力者と言われる連中や、死後の世界とか言われちゃいるが、あるということも、ないということも証明されておらん。 結局、その人自身が決めることになる。 あるというヤツにとっちゃあるし、ないというヤツにとっちゃないのだ。 
 
 いつも言うが、死んでみりゃ分かること。 死は、平等にやってくる。