リーディンググラス

 老眼を自覚してから、本を読むのが億劫だったから、遂に老眼鏡を買った。 眼鏡屋さんに行って 「すいません、老眼鏡って、どれですか?」 と、聞いたら 「リーディンググラスですね」 と切り替えされた。 あれだ、読むためのメガネってことね。 老眼鏡という響きがよろしくないと。 今まで、老眼鏡と呼ばれておったんだから、それで良いじゃないか! と思うが、自分自身を若いと思っておる輩には許せんのだろう。 俺もか?

 そんな訳で、家に居って、本を読むときは、素直に老眼鏡を掛ける事にしています。 よく、じいちゃん、ばあちゃんがメガネを下げ鼻に掛けて、上目使いに見るのは、ちょい遠くがぼやけて見えるからなんだな、自分で掛ける様になると分かる。 

 再び、本を読むようになった。 最近、読み終わったのが 「サードマン 奇跡の生還へ導く人」 という本。 サードマンと言っても、長島のことではない。 内容を読むと、セカンドマンでも良かったように思う。 何かっちゅーと、危機的な状況になると現れる、居る筈のない第三者という意味。 エベレストの登攀や、海での遭難、戦時中、仲間が居らず、一人で、その危機的な状況に立ち向かわなければならないときにふと気づくと、隣に人の気配が在ったり、励みの声を掛けられたりと、霊的な現象か? と思いがちだが、そうではなく、今まで数限りなく、冒険談の裏で、語られてきたことらしい。 一人で登頂しておって、あまりにも突拍子もない話しなので、語りたがらなかったようである。 

 そんな現象を科学的な見地から、実証してみようという本である。 

 取っ掛かり、やはり、この存在を天使として受け止めることが多い。 信心深い国に関わらず、危機的な状況から、脱して、生還できれば、日本人でもそー思うだろうな。 共通して言えることは、霊的なもののように恐怖は感じないらしいのだ。 生死の境を生きておるのに安心感を感じるらしい。 そして、ポイントポイントの判断を下してくれるのだ。 ここら辺も、天使や、神と言いたくなる要因だな。 作者がしきりに言っておることは、人というのは、一人で生きることが出来ない社会的な動物であり、サードマンは、その証明であると。 

 人は、人と関わっておらんと、生きて行けん動物である。 これは、俺自身も判る。 ひきこもりであっても、社会を敵に回した輩でも、搾取する存在が居らんと生きてゆけんからな。 社会からの離脱は、キャスト・アウェイじゃないけれど、絶海の孤島で生活せんと、無理だろう。 人と一切関わりを持つことが出来ず、危機的な状況下にあり、一人では脱することが出来んとき、どこからともなくサードマンはやってくるらしい。 うーーん、どっかで聞いたような文句だな。 

 半分くらいが事例である。 まぁ確かに事実の話を聞かせないと、本論に入ったときに信憑性が低くなってしまうからな。 

 最終的に脳が起こしている現象というところに行き着く。 やっぱ、脳みそは、極限下、死に直面すると切り替わるスイッチがあるように思えてならない。 そして、それは、生きるということを前提に機能しているのだと思う。 本能は、当然、生き残ることを目的にしているのだ。 
 原始時代、今よりも命に関わることが多かったであろうから、そのときに脳にそんな機能が組み込まれたのではないか? と、仮定していた。 

 脳みそという母体があり、それに付随している、身体があり、日々、成長し、情報を吸収し、病原体とも戦わなければならない。 人が生きていることは、奇跡であるという意味は、分かるよな。 多々あるリスクを回避して、今ここに生きているのだ。