駿じゃなくって

 ここ数年、戦争映画が、新たな角度で、作られるようになっておる。 去年上映された 「風立ちぬ」 そして、ロングラン上映されておる 「永遠のゼロ」 どっちゃも、ゼロ戦を描いておる。 特攻、神風、ゼロ、ここら辺のもんは、戦争を想像させる。 戦争は、人としての良い部分をすべて、なくす行為である。 技術的な進歩があるじゃないかとか、戦勝国はいうかもしれない。 その技術進歩は、正しいものとして、使われた進歩じゃない。 戦争終結後結果として、えかったえかったと言われるだけだ。 戦勝国も、勝って官軍でしかなく、すべてを力技で、捻じ伏せる権利を持ったようなもんだ。 

 日本における戦争の歴史は、消すことは出来んことだ。 日本だけじゃなく、どこの国でもだな。 俺の考え方は、歴史というのは、各個人の足下に繋がっておると思っている。 国としての歴史であり、家族としての歴史、個人としての歴史、世界としての歴史、色んなもんが各個人の足下に繋がっておるという考え方である。 だってさ、表面がアスファルトで、固まっちゃいるけれど、そこで、色んな事が過去に起っちゃ、忘れ去られ、起っちゃ、忘れ去られてきたんだよ。 姿かたちは、変わっちゃいるが、そこで起きたことは事実なのだ。 

 メロウだけれど、「風立ちぬ」 を観た。 駿のじゃない、風立ちぬ。 堀越二郎の本を探そうと思い、検索すると、堀辰雄の 「風立ちぬ」 が検索される。 駿の 「風立ちぬ」 を詳しく知らんかったから、堀辰雄が、どういう風に絡んでくるのかが判らんかった。 話としては、別個のもんだったのね。 
 今回の観たのは、百恵友和の 「風立ちぬ」 である。 

 百恵友和で、描かれているのだから、軍国主義ブンブンではない。 重点を置かれるのは、ロマンスである。 この映画のときは、十代だったんじゃないのかな、大人びているというのか、落ち着きがあるというのか、以前、友人が言っておったが、「百恵は、菩薩だ」 これ、確か、テリー伊藤も言っておった気がする。 
 平成生まれの連中には、百恵ちゃんは、どーいう風に映っているんだろうか? 剛力彩芽が、似てるといわれているが、印象の違いは、平成と昭和の違いなのかな。 

 歳を食って、戦争もんを観ると、表面的な部分で観るのではなく、経験や、考え方を投影してみるようになる。 ガキの頃は、「何で、そんな思いまでして、戦争をするんだろう?」 という単純な疑問しかない。 今でも、この疑問は解けていないな。 どうしようもない時代の流れの中でも、生きてゆかなければならなかったのだ。 世界は相変わらず、不安定だけれど、日本は、ずーーっと平和である。 いつでも、俺は、パソを開いて、こいつを打っている。 「世界じゃこんなことが起きているのか」 とか コピーされた映画を観たり、コピーしたり、ロミオとジュリエットの頃から、好きな相手と、一緒になれんという鉄板なカテゴリ化されておるが、自由に恋愛が出来たり、好きな発言が出来たり、頭にきて、怒りに身を任せたり。 こんなこと、戦時下じゃ出来んかっただろう。 自由のありがたさを感じる。 ここに辿り着くまで、俺の足下で、色んな事があったことは忘れちゃならねぇな。