笑うじゃなくて、嗤う

 前から気になっておった作家がおる。 京極夏彦。 ブーム最前線のとき、夢に出そうな本ジャケだったから、何度か手には取った。 が、買わんかったし、読まんかった。 俺、基本ノンフィクションのみを読むと決めているから、そっち方面は敬遠しておったのね。 何故にノンフィクションか? 世間にゃこれだけ多くの本が出ておる。 これを全部読むことは出来ん、だから、ノンフィクションのみに絞ったのだ。 それでも、結構大変。 

 気になる作家がおっても、その人が書く、エッセイや評論文を読むことにしておるのだ。 それによって、作家の本質がわかるからな。 だが、今回、禁を破り、京極夏彦に手を出してみた。 この人、本が厚い、字が小さいの二大苦、そして語尾がちょいとばかり、癖がある。 大人が読む本なのにルビが沢山ふってあるって時点で判るだろ? そんな数ある京極作品から何を選んだのか? 巷説百物語魍魎の匣姑獲鳥の夏etc、シリーズ化されておるもんも多い。 選んだのは、前々から読みたいと思っていた 「嗤う伊右衛門」 

 勘のいい輩は、伊右衛門と付いた時点で、四谷怪談と思いつくわな。 そのとおりである。 だが、現代語訳四谷怪談というわけではなく、夏彦解釈四谷怪談といったら、いいのかな。 これ、映画の方を先に観ておる。 世界の蜷川が監督した映画で、俺としちゃ、よー出来ていると思ったんだけれど、批評を見るとな 「原作の切なさが出ていない!」 「これじゃー只、映像にしただけ!」 とか評判がよろしくない。 ふ〜ん、そんなに原作は凄いのかと、思うわな、まぁ大概、映画は原作を越えられないんだけれどな。 読みてぇ〜でも、ノンフィクションのみというルールがあ〜ると、自分で作ったルールに縛られてしまっていた。 俺が作ったルールなんだから、破りゃー良いじゃんと思うだろ? ルールっていうのは、簡単に破っちゃいけねぇーんだ。 破るとだな、際限なくなっちゃうんだよ。 止〜め〜たと、決めたもんをやったり、飲んだり、食ったりするのは、簡単なんだ。 でも、一度その手ことをやると、同じことを繰り返すことになるんだな、だから、一度決めたことは、遣り通すというのが間違いがない術だったりする。 

 だからといってだ、いこじになって、それに固着することも間違っている。 そこら辺の頃合は、性分によるんだろうな。 このところ、小難しい本ばっか読んでおったから、息抜きをしたいと考えておったのかもしれない。 俺の場合、本の息抜きは、椎名誠なんだ。 ブック負ふで、探してきちゃ読む。 引っ越してきたとこの目と鼻の先にブック負ふがあるから、気が向くと行っている。 行くからといって、毎回買うわけではない。 しこたま買っても、再び、置く場所に困るというジレンマ。 でも、近いから増えたら、売ればいいやという、安直さ。 

 さて、この話、伊右衛門=悪い人という話しじゃない。 岩=化けて出るという話でもない。 逆に怪談か? と聞かれると、う〜んとなる。 出てくる面子は、一緒だけれど、役回りが違う、そして、話しがまるっきり違うのだ。 切ない話になっておる。 

 謎かけのようになっていて、最後まで読んでも本当のところは語られていない。 しかし、本を全部読めば、ちゃんと伏線が張っており、答えが出るようになっている。 なんとも切ない話なのだ。 映像では、到底表しきることが出来ん心理描写を文章に託しておる。 でも、映画は原作に忠実なんだよな。 読んでみて思ったのは、やっぱ原作には敵わないなってことだ。